ぼくのふるさとは、 児童唱歌だった。
一枚の風信子10
団塊世代の真っただ中、昭和22年に川崎の京浜工業地帯の外れに生まれ育った私には、心に残るふるさとがなかった。
モノ心がついたころには「柿に赤い花咲く いつかのあの家」は一軒もなく、「菜の花畑に 入り日薄れ」も見たことはなかった。「春の小川は さらさら行くよ」はただのどぶ川だった。「吾は海の子 白波の」海は泳ぐどころじゃなく瀕死の状態だったし、「夕焼け小焼けの 赤とんぼ」はスモッグを嫌ってどこかに行ってしまっていた。
「夏休み」の終わりはだれもが憂鬱になるものだが、私の場合はとりわけていやだった。
宿題の日記と工作がまったくできないのだ。もしも田舎があったなら、野山で昆虫を捕らえたり、海や川で泳ぎを覚えたり…ただただ楽しく遊ぶだけで、両方ともたやすくできてしまうのに。「今日は、庭先の竹で小さなカゴを作りました。カミキリ虫をつかまえて入れました。カゴは、宿題の工作として持ってゆきます」といった具合にネ。
で、始業式のその日は、これでもかというくらい「ふるさとみやげ」を見せつけられることになる。まず顔がうらやましいほど黒い。「野外で思いきり楽しく遊んだ」と、身体がそう言っている。見たこともないような虫の標本や宝石のような貝殻の工作が追い討ちをかけてくる。夏のピカピカ冒険談を聴かせられるころには、ため息すら出なくなっていたものだ。
菜の花畑に、児童唱歌を思い出して、一枚パチリ。
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